無題
「明日をどうやって繋げたらいい」
「明日になったって何も変わらない」
この2つの考えというか、命題というかは、
自分自身の頭の中にずっと突き刺さって、
蠢いて、蝕まれてきた。
結局、今の自分は、
「明日になったって何も変わらない」
ということは、否定出来るようになってきたと思う。
そして、その理由が「明日を繋げる方法」だったりする。
今週の頭は、本当に会社に行きたくなくて、
精神的に限界にきていて、辞めようか、死ぬか、という次元だった。
それでも今日まで繋いでくれたのは結局、「友達」だった。
水曜日の夜から木曜日の朝まで遊ぶってそれだけで、
その日までなんとか繋ぐことが出来た。
たとえ自分を騙しても、その日まで繋ぐことは正解だった。
だから今日がある。明日もある。明後日もある。
そうやって、生きて明日に繋いでいくことは、
紛れもなく素晴らしいことだ。
明日を生きられるのは素晴らしいことだ。
今日は古い友人の母の葬式だった。
自分は招待されていなかったので行かなかった。
(古い友人、今は付き合いがない。だから呼ばれなったことは必然だ。)
人の命は永遠じゃない。今しかない。次にいつ会えるかは本当に分からない。
だから、一緒に会って、共に笑顔で過ごせる時間は本当に宝物とか
安っぽい言葉では形容できないくらい、掛け替えのないものだ。
今を生きる、それを嚙み締められるようになるには、
多くの経験と体調、色々な重なったものしか訪れない。
誰でも得られるものじゃない。心身の疲弊によって
ボロボロになった人間に、「明日は美しい。
明日が駄目でも、繋いでいった日々には美しいものが待っている。」
とかなんとか意味不明なことを言っても、絶対に伝わらない。
「理解」を得るには「条件」が整っていないといけない。
その「条件」をすっ飛ばして、完璧な「理論」を用いて
「理解」を迫っても、得られるものは何もない。